まちと理性 ―商店街を知るための内視鏡的視座―

商店街内部(事務局職員)の視点で地域社会を考える

商店街活性化という呪文(その2)

「商店街活性化」という言葉を商店街内部ではほとんど聞くことがない、

という話を以前書いた。

外部の人は好んで用いる言葉なのに、商店街の当事者はあまり好まない。

外部の人には便利な言葉であっても、当事者には胡散臭く聞こえてしまう。

この感覚の違いをヒントに、今回は「商店街活性化」について

当たり前のことを今更ながら改めて考えてみたいと思う。

 

「商店街活性化」という言葉が、とても便利で胡散臭いのは、

その基準がきわめて主観的で、活性化の定義が明確ではないからである。

何をもって「活性化」なのか、実はよく分からずに使われることが多い。

いま試みに、これを「外見的な活性化」と「内面的な活性化」に分けて

考えてみることにする。

外見的な商店街の活性化とは、人通りが増えたり、お店が増えたり、

商店街の設備が整えられたり、装飾が施されたり、音楽が流れていたり、

威勢のいい売り声が聞こえたり、食べ物のいい匂いがしたり、

そういう賑やかさが街全体に肌で感じられることを言うのであろう。

つまり、視覚的、聴覚的、嗅覚的な感覚を通した環境の評価と言える。

一方、内面的な活性化とは、店舗の売上げが増えたり、組織の会員が増えたり、

事業活動が活発になったり、担い手が若返ったり、会員の交流が増えたり、

そういう組織や会員の内実が具体的に豊かになることを言うのであろう。

つまり、会員たちが受取る実利的成果への評価と言える。

では、外見的な活性化は、なぜ必要なのだろうか。

簡潔に言えば、それは住み心地、利便性の要求を満たすためであり、

治安維持や消費マインドの刺激などといった効果も期待できるからだろう。

これに対し内面的な活性化は、会員たちの利益追求が目的であると言える。

つまり乱暴な言い方をすれば、外見的な活性化は住民が求める活性化であり、

内面的な活性化は、加盟店が求める活性化であるということになる。

 

では、どちらが本当の活性化なのだろうか。

もちろん、それは両方であろう。

どちらの活性化も必要であり、どちらの方が重要だと比較できるものでもない。

外見的な活性化は、商業集積の環境拡充に主眼が置かれているのに対し、

内面的な活性化は、店舗経営者の利益拡充に主眼を置いたものである。

両者はどちらも相互に補完し合って初めて成立つものであって、

どちらか一方だけで成立するというものではない。

以上のことは、極めて当たり前のことを改めて述べているに過ぎない。

今更、確認してみるまでもないことであろう。

しかしその当たり前のことを「商店街活性化」という、ふわふわした言葉で

語ろうとすると、とたんに話が噛み合わなくなるのである。

こういう時は、定義の曖昧な言葉をなるべく封印して、

別の明瞭な言葉に置き換えて話し合ってみてはどうであろうか。

商店街のどのような姿が求められているのか、お互いに具体的に示し合い、

目標や認識が共有されたところから話し合いが始まるのだと考える。

自分の求める姿と他人が求める姿は違っている、ということを

はっきりさせることも、まず最初にやらなければならない作業であろう。

その上で施策の検討やビジネスモデルの提案がなされるべきではないのか。

「にぎわい」とか「うるおい」とか「活気」とか「元気」などという

曖昧で無責任な表現でごまかすのではなく、論理的な理解の共有を重ねる、

それが所謂「商店街活性化」のために必要な取組みだと私は考える。

 

#地域社会 #商店街 #商工会 #活性化

 

外国人と地域商店街の現代事情

東京の主要な商店街だけでなく、ややローカルな街でも、

外国人が経営するお店をよく見かけるようになった。

特に外国料理の店などは、この数年で急増しているように思う。

私が勤務していた商店街でも、路面店にハラル食材の店が出店したり、

アジア料理などの飲食店が相次いで開業した。

当然、外国人経営者に対しても商店街の費用負担をお願いするのだが、

言葉の問題、習慣文化の違いもあり、なかなか協力してもらうことが難しい。

自分は外国籍でも税金を払っているのに、なぜ商店街にお金を払うのか?

と質問されたこともある。

理由を説明をすると、今度は日本語が分からない、と逃げられる。

外国人を差別するつもりは全くないのだが、

さりとて特別扱いする訳にもいかない。

残念ながら商店街にとって、対応に困る相手であることは否定できない。

 

ところで十年ほど前から、地域の商店街でも駅前などに立地するビルが

投資目的で大手資本に買取られる話を耳にするようになった。

しかも最近では、国内資本だけではなく、アジア系の外国企業が

商店街の古い木造店舗物件まで買い漁っているという話を聞く。

実際、或る店舗物件の登記簿謄本を別の用件で取り寄せたところ、

英国領下の離島に籍を置く東洋の会社が家主になっていることが判明し、

非常に驚いたことがあった。

その店舗は、昔からの大家さんが国内の不動産業者に売却した後、

或る銀行の系列会社に転売され、更に東洋の会社に再度転売されていた。

その会社は近くの別の店舗物件を買い入れていることも後日分かった。

関係する業者の話によると、実際の売買手配は、

日本の代理店が委任されて差配しており、外資系証券会社から独立した

ビジネスマンなどが代理店を経営しているケースも多いらしい。

都心の繁華街やビジネス街ならともかく、地域住民しか利用しないような

商店街の古い木造店舗が、海の向こうの怪しい投資家の投機対象になっている、

そんなことが現実に、しかも日常的に進んでいるのである。

テナントは営業したまま、家主だけが転々と変わっているので、

お店の店員はそうした事実に全く気づいていない場合もある。

商店街として店舗だけでなくその家主にも様々なお願いをすることがあるが、

外国の投資家相手に対応することはほとんど不可能であろう。

それ以前に、転々と変わる家主の把握すら難しいかもしれない。

 

日々のニュースで伝えられる深刻な国際問題に比べれば、

取るに足らない小さな出来事かもしれない。

しかし、地域の病理というものは、気づかないうちに自覚症状もなく

この国の全身を蝕んでしまう場合がある。

早期発見、早期治療が肝心だと思うのだが、それとも私の杞憂であろうか。

 

#地域社会 #商店街 #商工会 #外国人経営者

 

閑話休題① 論文のための論文

最近、ヒマにまかせて地域社会関係の文献を読みふけっている。

この分野ではアンケート調査をまとめた報告論文も少なくない。

非常に参考になるものは多いが、設問方法と分析結果に無理があるなと

思ってしまうものも目にすることがある。

何となく、論文のための論文のような印象を抱いてしまうのである。

そういう研究が蓄積された場合、導き出される方向性が必ずしも正しいとは

言えないのではないか。

マーケティングの世界では消費者アンケートに騙されてきた苦い歴史もある。

アンケート作成の前に、ぜひ当事者の意見を聞いていただきたいと思う。

そして、アンケート結果をそのまま鵜呑みにしないという態度も重要だ。

回答者が(結果的に)うそをつく、という視点は、決して非科学的ではない。

それを承知の上で報告しているのだとしたら、

やはりそれは、論文のための論文ということになってしまうだろう。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会

 

商店街の理念について

商店街の「理念」や「ポリシー」「コンセプト」「方向性」「ビジョン」

といったものを、どのように考えているのか、という質問を

しばしば商店街事務局として受けることがあった。

恐らく商店街を見渡した時に、そのようなものが

あまり感じられないので、そうした疑問が湧いてくるのであろうし、

必要なものであるにも関らず、この商店街にはそれが欠けている、

と感じるが故の質問でもあるのだろう。

しかし、商店街という組織は、会社や役所のようなタテ組織ではなく、

上下関係の無いヨコ組織であるため、「理念」を打出すことが非常に難しい。

加盟店においては、自分の店の「理念」を持っているかもしれないが、

彼らが商店街全体としての「理念」を持っているかと言えば、

恐らく大半の店主は、そのような発想を持ち合わせていないに違いない。

商店街の役員をしている加盟店であっても、あまり大差ないように思われる。

仮に組織の代表者などが、商店街の「理念」を打ち出し、号令を掛けたとしても、

皆がそれに従うかといえば、それはまた別問題だ。

従わせる強制力を何ひとつ備えていないのが、商店街という組織の実態である。

 

そういう意味において、商店街は個々バラバラの集団であり、

いわば精神分裂病的な、多重人格的な組織であるとも言えよう。

一方で別の見方をすると、このような多重人格的な性質が

逆に商店街の面白さを引出しているという側面も持っている。

ただ、この状態を「矛盾だらけで理解できない」と思う人にとって、

商店街の面白さはなかなか分かりづらいものなのかもしれない。

それはともかく、商店街には何故かそれぞれに独特の個性があり、

異なる気質を感じさせるところがある。ビジョンや理念も無いのに、

なぜ多くの商店街は違った顔を持ち、異なる表情を見せるのであろうか。

理由のひとつとして考えられるのは、その街ごとの個性であろう。

そこに広がる街全体がその商店街をそう在らしめているのであり、

更に言えば、その商店街を買い支えている利用客たちが

その商店街の個性をも育んでいるのだということである。

毎日毎日利用してくれる顧客の意識が、

最終的に店舗の方向性を左右する最大の羅針盤となるのは当然のこと。

顧客のニーズに合わせて店舗の在り方は左右されるのであり、

その集合体としての商店街もまた、顧客層の意向に沿って、

進化する生き物なのである。

 

とはいえ、やはり商店街が組織である以上、

そこに理念なりビジョンといったものが求められることは言うまでもない。

では、ヨコ組織の商店街において、いかにして理念を打立て、

その方針を一丸となって遂行していけば良いのであろうか。

組織の理念を策定するためには、加盟店同士の相互コミュニケーション、

合意形成というものがまず求められるだろう。

みんなで決めたものでなければ、みんなが従わない組織である以上、

どうしても全体の合意形成というものが必須の前提となる。

そのためには、みんなで話合う時間が必要となってくる。

もちろん短時間では済まないから、膨大な時間を確保する必要があるだろう。

それは容易ならざることであり、現実的にはかなり困難なことである。

また、仮にいくら時間があったとしても、話合う技術が無ければ、

議論は堂々巡りを繰り返すばかりである。

話合う人たちには、話合いをするための準備と資質が必要なはずで、

実はこれこそが非常に重要なカギとなるように思う。

 

話合いをするためには、自分の意見を論理的に整理して組立て、

論理的に相手に伝えることが必要となるが、これはひとつの技術でもある。

また、相手の意見を論理的に理解する技術も同様に必要だ。

自分の意見を論理的に組立て、論理的に伝え、相手の意見を論理的に理解する。

この3つの技術が備わって初めて、実りある理性的な議論が成立するのである。

理性ある話合いが出来て初めて、相互理解と合意形成が生れるのである。

つまり、そこにたどり着くための第一歩は、

まず我々が話合う技術を身につけるところから始まるということだ。

それは何と遥かなる道のりであることか。

しかし、そこを乗り越えなければ、地域社会は永遠にこのまま変わらない。

支配者が号令をかけ、被支配者がそれに従う封建社会に戻らない限り、

合意形成を図ることは、現実問題として非常に難しいのも確かである。

 

これはしかし、商店街に限った話ではない。

地域社会が抱える多くの問題の本質も、実はここにあるのだと感じている。

まちが理性を身につけなければ、いかなる議論も始まりはしない。

いかなる議論も、技術と準備なしには結論を見出し得ないのである。

遥かなる道のりを覚悟すること。

それが、理念ある組織への勇気ある第一歩ではないだろうか。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会

 

商店街を知る③ 会社でもなく、公共団体でもない商店街組織

どこの町にも、たいてい大なり小なり商店街がある。

近年はともかく、昭和の時代は人の住むところに必ず商店街があった。

その意味において、商店街は誰にも身近な場所であったはずだ。

ところが、商店街がどのような組織で、どのように運営されているのか、

その内情はさっぱり外部には伝わって来ない。

身近な存在なのに内部が外から見えにくい、という点でいえば、

例えば小学校もそうした存在のひとつかもしれない。

小学校に行ったことがない人はいないだろうし、同じように

商店街に行ったことがない人も、まずいないに違いない。

それほど商店街は身近で、尚且つ分かりにくい存在なのではないか。

 

以前にも何度か触れているが、商店街の組織には任意団体と法人がある。

また、事務局がある商店街と無い商店街がある。

それぞれ規模も形態も運営の仕方も異なるが、

基本は会の組織があり、加盟店がお金を出し合って組織を運営している。

組織というと、「会社」をイメージする人も多いだろう。

しかし商店街の場合は、加盟店の集りに過ぎず、代表者や役員はいるが、

その人たちの権限はきわめて限定的で、加盟店に命令や強制はできない。

上下関係が明確な組織ではないのである。

加盟店の上位組織として商店街が位置づけられると誰しも思うだろうが、

実態は逆で、加盟店は組織に出資している株主のような存在でもある。

その視点に立てば、商店街という組織は、加盟店が共同出資して作った

「子会社」のような存在ということになる。

従って、商店街に雇われている事務員は、子会社の従業員という立場になり、

親会社である加盟店に対して、指示や命令など本来できるはずがない。

むしろ事務員の方が、指示や命令を受ける立場にあるのだと言える。

 

一方で商店街という組織は、公共団体のようなイメージを持たれることも多い。

ところが上記の通り、商店街は純然たる民間団体であり、

加盟店が自分たちの利益のために自分たちの資金で運営している組織である。

そのため商店街の管理が及ぶ範囲も、共有財産と共同事業に限定されている。

共有財産とは、その商店街が所有する街路灯、会館、アーケードなどである。

共同事業とは、セール、イベント、ホームページ運営などである。

それ以外のことは管理できる立場には無いのだが、誰もそうは思っていない。

街全体、すべてのことを掌握していると思われてしまっている。

特に加盟店の営業に関することは、商店街組織として

管理の及ぶところではないのだが、しばしば対応を迫られることがある。

例えば、お店の接客態度が悪いという苦情が、商店街事務所に寄せられる。

例えば、お店が違法に看板を設置しているという指摘を役所から受ける。

いずれも、是正するよう商店街組織として対処せよと要請を受けるのである。

店員の接客態度を、商店街組織として管理している訳ではない。

それは加盟店の従業員教育の問題である。

店舗の看板設置も、商店街組織として許認可をしている訳ではない。

違法行為があるなら所轄官庁が取り締るべきで、商店街にその権限は無い。

にも関らず、商店街組織として対応するのが当然であるかのように

様々な案件が外部から持ち込まれ続ける。

 

もちろん、それらの苦情や指摘は、商店街にとって重要なものも多い。

現状では、商店街組織が管轄する業務の範囲を超えてはいるが、

取り組むべき課題が多く含まれていることは否定できない。

だが、実際には何の権限も無いのだから、手も足も出せないのが実態である。

店員の接客態度が悪いと注意しても、聞く耳を持たなければそれまでだし、

違法看板の撤去を要請しても、店舗が従わなければ、それ以上何もできない。

店員の態度を所轄する官庁は無いが、違法行為であれば、

本来取締るべき所轄の役所が対処すべきなのではないだろうか。

それは例えば、町内に殺人犯が住んでいたら、町会長が犯人を逮捕すべきだ、

という論法であるように思えてならない。

同様にして、町内に迷惑な住民が住んでいたら、町会長が何とかすべきだ、

という論理でもあろう。

 

商店街の通りで不法投棄があったり、ホームレスが路上を占拠したり、

買い物客の自転車による事故が多発したり、店舗の建物工事で騒音が出たり、

不衛生な飲食店から害虫が発生したり、下水枡から頻繁に悪臭がしたり、

ハトやカラスが軒先に巣を作ったり、一方通行を逆送する車両が多かったり、

およそ商店街組織として管理の及ばないこれらの案件が、

商店街の通りで発生しているというだけの理由で、

当然対処すべき問題として日々商店街に持ち込まれている。

 

一体、商店街とはどんな組織なのだろうか。

何のための団体で、どうあるべきなのだろうか。

本来あるべき姿に遠く及ばないのだとすれば、何がどう足らないのか。

その問題を考える前に、まずは組織の現状と本質を正しく理解する、

最低限そのことが必要なのではないだろうか。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会

 

商店街活性化という呪文(その1)

商店街の中にいて、いつも不思議に思っていたのだが、「商店街活性化」

という言葉は、どういう訳か、商店街内部ではほとんど聞くことがない。

外部の人は好んで用いる言葉なのに、

商店街の当事者は、滅多にこの言葉を口にしないのである。

私自身も、実はほとんど使ったことがない。

もし使う場面があるとすれば、それはどちらかといえば否定的な場面で

他人の口から出る言葉として使われることが多い。

例えば「商店街活性化のために、と言って業者から提案があったけど、

的外れな内容なので断った」といった使い方である。

それは、商店街のためであることを前面に押し出して、

外部の人間が近づいてくる時のお決まりの言葉なのである。

外部の人間とは、官公庁の役人だったり、業者だったり、常連客だったり、

立場はさまざまだ。

本気で商店街を活性化させようと思ってやって来る人もあれば、

活性化のメリットを口実にしているだけの人もいる。

外部の人が使うには、確かに便利な言葉なのかもしれない。

 

しかしなぜ、商店街の当事者たちは「活性化」という言葉を避けるのだろうか。

恐らく、この言葉は当事者には今ひとつピンと来ないのであろう。

そもそも商店街とは、活性化されるものなのか?

或いは、活性化とは、そもそもどういうことなのか?

その活性化は、自分たちにとって本当に良いことなのか?

店主たちからすると「売上げアップ」ならば心動かされるかもしれない。

耳障りは良いが、内容がよく分からない、ふわふわした言葉でもある。

まちが活性化したところで、俺の店には関係ない、

という店主たちの声もよく聞く。

つまり「商店街活性化」は、必ずしも「売上げアップ」を意味しない。

しかし外部の人たちは加盟店の増収増益よりも

「商店街活性化」の方に主眼を置いているように見受けられる。

お互い、求めている姿が異なるため、話が噛み合わないのである。

更に言えば、相手のメリットがどこにあるかもお互い理解できていない。

 

「商店街活性化」は、当事者の心を閉ざす怪しい呪文として、

今後ますます胡散臭さを増していくことだろう。

そしてこの怪しい呪文が、なぜ両者の間に見えない壁を築いてしまうのか、

その分析は、いずれ稿を改めて考えてみることにしたい。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会

 

テレビの撮影と商店街

テレビ番組で、毎日のように商店街が取上げられるようになってから

もう10年くらいになるだろうか。

最近では、有名なタレントが商店街に来てロケを行うことも

まったく珍しい光景ではなくなった。

実際、私が所属した商店街にも、多くのタレントさんが撮影にやって来た。

最低でも月に1回は商店街の中で撮影が行われたし、

街頭インタビューは、ほぼ毎日、どこかのワイドショーが来ていた。

何も知らない人は、商店街がメディア戦略として、テレビ局を誘致している

と思うかもしれないが、一切そのような事実はない。

そもそも、商店街が声をかけて来てくれるような世界でもないだろう。

 

商店街事務所には毎日、メディア関係者から問合せや相談の電話が入る。

その大半は街頭インタビューの申込みだが、ドラマ、CM、バラエティの

撮影に関する相談も少なくない。

私が勤務した商店街では、基本的にドラマ、CM、映画の撮影を

お断りしている。

以前、そうした撮影をお受けして大変な騒ぎになったことが何度かあり、

もう二度と協力しない、ということになったらしい。

 

ドラマなどの制作では、ロケ地を探す(ロケハン)担当者と

現場スタッフは、たいてい別の人であることが多い。

ロケハン担当者は「ご迷惑をおかけすることは絶対ありませんから」と

たいそう低姿勢なのだが、いざ撮影となると、現場スタッフは

傍若無人でやりたい放題というパターンを何度も経験している。

勝手に商店街を通行止めにして撮影を優先するのが当たり前。

道の真ん中に撮影機材をドサっと並べて放置したまま。

挙句の果てにはBGMで流している有線放送を止めろと言い出す始末。

商店街は「オープンセット」ではない。買い物をする場所なのである。

当たり前のことが分からない人種に何度遭遇したことか。

 

一方で、バラエティ番組、特に散歩系、旅行系番組で取上げられると、

視聴率によっては、大きな反響を呼ぶこともある。

問合せの電話がガンガン商店街事務所にかかって来て、放送翌日には

大勢の来街客でごった返したこともある。ムゲに扱うわけにもいかない。

テレビの宣伝効果はやはり絶大である。

商店街のホームページの閲覧者数も、テレビの露出があると、

だいたい3倍から10倍以上に跳ね上がる。実に有難いことだ。

ところが最近の傾向として、メディアによる集客効果は、

日増しに瞬間的なものになっているように感じる。

数年前までは、テレビ効果による集客が数週間も続くことがあったのだが、

ここ最近は1日、2日で終わってしまう。

しかも、テレビに出たお店にしか行かないお客さんが非常に増えている。

以前は番組で取上げられた店に限らず、街全体に

広く集客効果が及んでいたのだが、今は極めて限定的な効果に終わっている。

世間の興味は「タレントが来た街」よりも「タレントが来た店」に

そして「タレントが食べたもの」に限定されているように思えてならない。

 

商店街は一般的に、観光地や繁華街ではないエリアが多い。

いつもほぼ同じ人が歩いているローカルな街がほとんどだろう。

そういう商店街は、その地域の住民が支えてこそ健全なのだと思う。

確かに遠方からわざわざ来てくださるお客様は、本当に有難い。

大事にしなければならない。

そして同じように、地元のお客様も大事にしなければならない。

テレビに出ても出なくても、日々お買物をしてくれる、

そのことが地域の商店街をどれほど元気にしていることか。

 

商店街は買い物をする場所なのである。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会