まちと理性 ―商店街を知るための内視鏡的視座―

商店街内部(事務局職員)の視点で地域社会を考える

商店街を知る② 東京の商店街形成と木密地域

商店街について考える上で、押えておきたい問題のひとつとして、

「商店街」という言葉の成立ちについて以前取り上げたが、

今回は東京の商店街の成立ちについて見ておくことにしたい。

 

東京で有名な商店街といえば、例えば、戸越銀座商店街巣鴨地蔵通り商店街

或いは下北沢、高円寺、大山、武蔵小山などの名前をよく耳にするだろう。

これらの商店街は、多くが関東大震災以降、昭和初期にかけて市街地化し、

戦前期に商店街を形成して発展した街である。

ちょうど「商店街」という言葉が使われ始めた頃に人口が急増した

新興の街ということになる。当時は「新開地」などと呼ばれていた。

立地を見てみると、山の手線の外側、おおよそ環状7号線周辺に

昭和初期成立の商店街が多数分布していることが分かる。

戸越、武蔵小山、自由が丘、三軒茶屋、下北沢、笹塚、高円寺、中野、

江古田、大山、十条、赤羽、西新井、竹ノ塚、綾瀬、亀有、新小岩などが

その代表例である。

 

大正12年9月の関東大震災により、東京の旧市街地は都心部を中心に

壊滅的な被害を受け、山の手線の外側へ多くの被災者たちが移住した。

その結果、急速な人口増加によってこれらの「新開地」が誕生した訳である。

もちろんこの前提として、首都圏の鉄道網整備なども大きく寄与していた。

急速な人口増加は、生活必需品の大量消費という需要を生み、

そこに商店街が自然発生的に形成されていくという経過をたどる。

こうした「新開地」の形成には、当然のことながらまず宅地開発が行われた。

多くの場合、これらの新興商店街周辺には同潤会住宅が建設されており、

東京という街の歴史、成立ちを考える上でも大変興味深い。

同潤会は、関東大震災の被災者を救済する目的で、都内近郊に多くの住宅を

建設したが、その立地エリアは当時未開発だった環七周辺に集中していた。

つまり、先に例示した新興商店街の立地と重なる箇所が少なくないのである。

同潤会住宅だけではないが、昭和初期に次々と開発されたモデルタウンは、

新興商店街とワンセットで形成されており、これに伴って小学校の増設や

道路・水道整備事業、区画整理組合事業なども

同時期に同じエリアで一斉に進められた事業であった。

 

昭和初期に誕生したこれらの「新開地」が、いま同じ状況を迎えている。

例えば、木造住宅密集地域、いわゆる「木密」問題というものがある。

昭和初期あるいは終戦直後に自然形成された街の宿命として

木造住宅が現在も密集しており、防災上危険視されている問題のことである。

「木密」地域は、たいてい道路が狭く入り組んでいるため災害に弱く、

水道管などのインフラも老朽化していることが多い。

街の形成から70~80年が経って、街自体が老朽化を迎えているのである。

そんな地域に、東京を代表する主要な商店街が多く立地していることになる。

ここに至って今、再開発と商店街の存続が、俄かに注目され始めている。

特に東日本大震災以降、東京都は「不燃化10年プロジェクト」を立ち上げ、

「木密」地域を中心とした再開発、防災対策事業に力を注いでいる。

 

この問題は、地域ごとの個別の問題というよりは、いま見て来たように、

東京という街の歴史そのものの問題であるように思えてならない。

新興市街地の開発は行政の施策を受けたものだったかもしれないが、

商店街の形成は、施策というより需要に応じて自然発生したものであった。

生活する人々が求めたから生まれたのであり、今も尚、求められているから

商店街は存続しているのであろう。

時として行政の強制的な力を必要とする問題もあるとは思うが、

どのような場合であれ、自然の力に背かぬよう手を加えなければならない。

自然に逆らえば、必ず人工的な企みは破綻を余儀なくされる。

「木密」を背景とする再開発と商店街存続の両立問題は、

昭和の東京がいかにして形成されたのか、東京全体の問題として、

再度立ち返って考える必要があるのではないだろうか。

百年の計は、まず百年の歩みを知ることから始める必要があるだろう。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会

 

運転手のいないバス

商店街の内情を知ろうとして、様々な人たちが商店街事務局を訪れる。

例えば官公庁、商工会、中小企業診断士、大学教授はじめ研究者などなど。

そうした方々と意見を交わすとき、私は商店街をバスに例えることがあった。

うちの商店街は「運転手のいないバス」のようなものだと。

別の言い方をするなら、

自分がこのバスの運転手だと思っている人が、誰もいないのである。

それでも、商店街というバスは走っている。

加盟店という大勢の乗客も乗っている。

乗客たちは、当然誰かがこのバスを運転しているものだと思い込み、

自分のことで頭がいっぱい。外の景色を見る余裕もない。

組織の役員たちですら、自分が運転手だという意識は薄い。

商店街に事務員がいる場合、特にその傾向は強くなる。

事務員がいるから大丈夫だ、という意識が、彼らを油断させるのだろう。

ところが事務員というのは、もともと運転席に座る資格がない。

もとより乗客ですらないのだが、役務上やむを得ず乗車しているに過ぎない。

その事務員だけが、実は運転席の脇にいて、前方を見張っている。

それが現状だ。

しばらく道はまっ直ぐだとしても、先に行くとカーブが見えている。

更にその先にはトンネルも待ち構えていた。

カーブですよ、トンネルですよ、と乗客たちに注意しても、

みんな自分のことで頭がいっぱい。事務員の声を気にする人も少ない。

運転席の脇で、事務員はハラハラしながらフロントガラスを見つめている。

この先どうなるのかは明らかだが、自分にはどうすることもできない。

みんな!大変だ!と大声を出しても、バスは止まらないだろう。

運転手がいないのだから。

 

それでも、本当に事故が差し迫ると、不意に誰かが運転席に近づき、

ハンドルを回して危険を回避する。

ああ、危なかった!

そうしてまた、何事も無かったかのように、バスは運転手不在のまま

よろよろと走り続ける。事故が起こりそうだったことも忘れて。

結局、運転席には、誰も座らない。

この先には、次のカーブとトンネルが見えている。

事務員は運転席の脇で、ひとり肝を冷やしている。

 

見ていないで、お前がハンドルを握ればいいじゃないか!

蛇行する危険なバスを見かねて、沿道の人がそう怒鳴っている。

しかし事務員はハンドルを握れない。それはルール違反である。

本当のことを言うと、こっそりハンドルを動かすことが無いではない。

それは必要最小限度に、影響の少ない範囲でうまくやらなければならない。

うっかり乗客に見つかると大変だ。

「君が運転していいよ」と、あっさり言い出しかねないからである。

「もともと君は運転手なんでしょ?」

そう勘違いしている乗客も少なくない。

残念ながらこのバスは、乗客たち自身が運転するルールになっている。

商店街の事務員は、一般的な会社の従業員とは明確に立場が違うのである。

会社の従業員は入社すると「社員」になるが、商店街の従業員は

「会員」にはなれない。商店街の会員は、会費を払っている店舗だけである。

従業員は会員ではないから、商店街のメンバーとは言えない。

しかし困ったことに、誰もそうは思っていない。

 

事務員が加盟店を回って、会費を集金することがよくある。

そんなとき、多くの店で店主たちのボヤキを聞かされる。

「商店街に金を払ってばかりで、何もいいことがない」

この言葉には、事務員が商店街を代表する立場だという意識が窺える。

事務局イコール商店街という図式が、前提になってしまっている。

ところが、事務員は商店街の会員ではない。部外者なのである。

あくまでも、お店の人たちこそが商店街のメンバーであり、

事務員は商店街に命じられて集金業務をしているに過ぎない。

商店街とは、あなた方自身のことですよ、

と言うと、全員が全員、自分は商店街なんかじゃない、と言い返す。

だって、自分で自分に会費を払うはず無いじゃないか。

確かにその通りだ。

しかし、実は商店街の会費は、自分が自分に払っているのに他ならない。

但し、会計上は別人(別法人)同士のやり取りと認められているし、

会員一人の一存で、商店街の財産を処分できる訳でもない。

みんなで集めた資金を、みんなで話し合って使っている。

だから自分たちの利益のために使えるよう、話し合えば良いだけだ。

その理屈が、組織の役員にも充分に理解されてはいない。

まして一般会員の中には、自分がどこの商店街に属しているかさえ

知らない者もいる。行先も分からずにバスに乗っているようなものだ。

いや、バスに乗っていることすら、分かっていないのかもしれない。

 

商店街とは一体、誰のことなのか?

 

お店の人が、報酬をもらって商店街運営の実務を引き受ける場合もある。

また、事務員がいない商店街も非常に多い。

むしろ商店街事務所を構えて従業員を雇用する商店街の方が圧倒的に少ない。

事務員がいない商店街では、役員自らが事務処理や雑用を引き受け、

会費の集金や業者への支払いなど、財産の管理も行っている。

それ故、自分たちで商店街を運営しているという意識は比較的高いと言える。

従って「運転手不在のバス」になるケースは少ない。

誰も運転したがらない、という点において事情はどこも同じだから、

根本的な問題は変わらないが、少なくとも運転席には誰か座っている。

だが、誰かが座っていたとしても、全く問題が無い訳ではない。

例えば、その運転手は運転が上手いとは限らないし、

同じ人が長く運転してくれるという保証もない。

目まぐるしく運転手が交代することも珍しくないだろう。

運転手がいないよりはマシかもしれないが、

本業の片手間で運転するのだから、安全運転とは限らないのである。

或いは逆に、運転手がハンドルを放そうとせず、運転席にしがみついて、

バスを勝手に暴走させる、というケースも目にすることがある。

これはこれで問題だ。バスの運行は、とかく困難がつきまとう。

 

要するに、バスを安定的に運行するためには、技術と時間のある運転手が

乗客の中にいるかどうかにかかっている。

運転の上手な事務員を雇っても、バスは走らないのである。

運転技術があり、時間も融通できる者が、乗客の中にいない場合は、

乗客の誰かが運転技術を身につけなければならないことになる。

更には、運転時間を確保する仕組みを作ることも必要だろう。

計画的に適任者を選び、技術を習得させていくことができれば、

そのバスは常に優秀な運転手を確保することができる訳である。

ところが、その仕組みを作ることは、そう簡単ではない。

商店街というバスの運転技術を、誰も教えてくれないからである。

同じ運転方法のバスなど二つと無いのだから、技術が確立するはずもない。

仮に運転技術が確立していたとしても、習得する時間や費用を確保するのは

更にむずかしい。

では、優秀な運転手がいないバスは、どうすればよいのか。

乗客たちがお互いに助け合うしかないだろう。そのためには、

まず自分たちがバスに乗っていることを自覚しなければならない。

次に、このバスはどこへ行こうとしているのか。車両は安全なのか。

燃料は足りているのか。誰が運転しているのか。気になるに違いない。

そうして最後には、バスに乗っている自分たちが、乗客ではなく、

実は「乗組員」だったのだと知る時がきっと来るであろう。

 

商店街とは一体、誰のことなのか。まずそこから、始まるのではないか。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会

 

事務局は、出しゃばるな

私が商店街事務所に就職して間もない頃、

元事務局長だった先輩から繰り返し教えられたことがある。

「事務局は、出しゃばるな」というものだ。

当時、このことで何度も注意されたのを覚えている。

元事務局長の先輩は「事務局はお留守番だ」とも言っていた。

「お留守番」とは、ずいぶん怠慢な心構えだな、と私は閉口したものだ。

しかしながら、「お留守番」の本当の意味が理解できたのは、

実はつい最近のことだった。

初め私は、商店街活動をなぜ事務局が手伝ってはいけないのか

さっぱり理解できなかった。

実際、事務局の仕事はほとんどが商店街活動の手伝いに他ならなかった。

そのうちに「出しゃばる」の意味は、表舞台に立つことだと考えた。

つまり事務局は黒子に徹して、裏方の仕事をきっちりやる、

そういう意味なのだろうと理解した。

事務局が前面に立ってしまうと、役員の面子が潰れてしまう。

役員に恥をかかせてはいけない。

そういう配慮もあるのではないかと。

ある意味で、その理解は間違っていなかった。

しかし今考えれば、それだけでは不充分だったのである。

 

商店街組織の役員は、加盟店の人たちが担っている。

役員の多くは、古くからある店舗の2代目、3代目であり、

その町で生まれ育った生粋の商人たちであることが多い。

彼らはお店の仕事をしながら、商店街の運営も見なければならない。

店舗の経営だけでも忙しいのに、その傍ら

商店街の組織運営に携わるというのは、大変な負担である。

サラリーマンと違って、商人の労働時間は一般に長くて際限が無い。

しかも大抵の場合、商店街は役員報酬を支給していない。

私が所属した商店街も、役員は無報酬で働いていた。

自分たちの利益のためとはいえ、まことに気の毒としか言いようがない。

そのことがよく分かるだけに、つい何でも業務を引き受けてあげたくなる。

それが嘘偽りの無い心情である。

何しろ、こちらは給料をもらって働いているのだから。

 

しかし、役員の代りに引き受けることのできる業務には限りがある。

例えば、判断を要する仕事は事務局で代行する訳にいかない。

AかBか、どちらにするか、事務局が勝手に選ぶことはできないのである。

そこで、決裁だけを役員に求めることになる。

決裁の手前までの雑多な業務は事務局で済ませておく。

どこの組織でも、そういう雑用は、部下なりアシスタントなりが片付けて、

責任者が判断を下し、指示を出すようになっているはずだ。

しかし、その時に問題となるのは、判断に必要な材料提供である。

役員が判断しやすいように配慮するあまり、

あらかじめ材料をシンプルに省略し過ぎてしまうことが多々ある。

更には、材料をこちらで恣意的に選んで提示することもできなくはない。

そうかといって、全部の材料を提示すると時間ばかり取られてしまう。

その兼ね合いが難しい。

総合的な判断を下すには、直接的な材料だけでは充分とは言えない。

常日頃から様々な案件に接し、知識、経験を積んでいなければ

理解できない問題も多いだろう。

実際に自分で目にしたり、聞いたり、立ち会ったりしなければ

詳細を把握することができない事柄もある。

結局のところ、材料を絞れば絞るほど、責任者の判断力は鈍ってしまう。

そこで役員は、次第に判断を事務局に委ねるような体質を帯びて来る。

しかし、これではそもそも役員が存在する意味がなくなってしまう。

事務局は商店街の意思決定機関ではないから、

形式的であっても、必ず役員会で決済していかなければならない。

こうして組織の担い手は形骸化し、自己運営能力の低下を招いてしまう。

組織として、これが死活問題であることに、気づく者は多くあるまい。

 

実は商店街振興組合の場合、

「事務局」は組合本体とは別枠に位置づけられている。

商店街に限らず「事務局」と名の付く組織は

概ね当該組織とは別枠で設置されていることが多いはずだ。

例えば、教育委員会や議会の事務局がそれに当る。

議会はあくまでも選挙で選ばれた議員たちによって構成されるものであり、

議会で働く事務員は、当然のことながら議会そのもののメンバーではない。

そのため議会そのものとは別に事務局を設置して、事務員が雇用され、

事務処理に当っているのである。

議会事務局の事務員は、もちろん議決権を持たず、議会に出席する権限もない。

ただ議会運営に必要な事務処理を行うために、言わば黒子として

議場に存在するに過ぎない。

事務員が、いくら議会運営に詳しいからといって、

議員が事務員に議決の判断を委ねることなどあり得ないことである。

商店街の事務局も同じ理屈だ。

基本的に事務局職員は、役員ではないし、組合員ですらないのである。

言ってみれば、国会議員でないどころか、国民ですらない、

という立場に当たる。

国民ですらない者に、国会の議決を委ねることがあるとしたら、

それはもはや独立国家とは言えないだろう。

商店街の事務局も同じ理屈である、はずだ。

ところが実際には誰も、そうは思っていない。

 

私とて、商店街と事務局の間にそこまで厳格な線を引くつもりはない。

ただ、原理原則で言えば、そういうことになる、

ということだけは、押えておく必要があるだろう。

お店の人たちがいくら多忙であっても、

実質的な商店街の運営を事務員が担ってしまったら、

それはもはや商店街とは言えない危険性をはらんでいるのである。

そのことを、元事務局長の先輩は知り抜いていたに違いない。

「お留守番」というのは、本来そこにいる人が不在にしている留守中だけ

当人に代わって見張りをする役目を指す。

つまり、本来その職務に当たるべき役員がたまたま不在なので、

その代りにそこで番をしているだけなのだ。

事務局たるもの、そこを弁えておけ、というのが先輩の真意であろう。

もはや先輩たちは鬼籍に入り、その言葉を聞くことはかなわない。

私は自分なりに14年間、一生懸命努力してきたつもりだった。

しかし、懸命に働けば働くほど、店の人々と商店街運営の距離は

むしろ広がっていくようにも感じていた。

いま思えば、出しゃばり過ぎだったのだ。

そのつもりも無いのに、お留守番が家主のような顔をしていたのだ。

ようやく私は気がついた。

そして今度は、商店主たちが気づく番である。

事務局は、出しゃばるな。ただ、お留守番であれ。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会

 

商店街を知る① 商店街という言葉の成立ち

商店街についてあれこれと考えていく上で、

知っておくべきそもそもの疑問を、いくつか確認しておきたい。

ここではまず「商店街」という言葉の成立ちについて考えてみようと思う。

 

定かではないが、「商店街」という言葉が使われるようになってから

まだ100年ほどしかたっていないらしい。

大正期から使われ始め、昭和初期に一般化されたと言われているからだ。

もちろん、それ以前にも商店街のような店舗の集りは存在した。

江戸や大阪の町にも、店舗が並ぶ通りはそこかしこに見られたはずだ。

しかし、そうした商店の集合体を「商店街」とは呼ばなかった。

反対に「住宅街」という言葉も、その時代はまだ存在しない。

単に「町」といえば大抵、商人や職人が集る場所を意味していたし、

奉公人(従業員)が暮らす長屋も、「町」の中に混在していた。

「町」という言葉があれば充分だったのである。

近代以前の社会は、生業/身分/住居地域が明確に分離していた時代だった。

では100年前、「商店街」という言葉はなぜ生れてきたのであろうか。

 

「商店街」という概念の成立には「商店会」の成立が大きく関っている。

「商店街」と「商店会」の違いを明確にするのは難しい側面もあるが、

字面からして「商店街」は街区そのものを指しているのに対し、

「商店会」は会という組織団体を意識した呼び方のように感じるだろう。

「商店街」も「商店会」も同じ時期に発生した言葉と考えられるが、

どこの「商店街」にも大抵は組織団体(商店会)が設立されており、

もしくは「商店会」の集合体として「商店街」が形成されていることもある。

ということは「商店会」の発生が前提となり「商店街」が誕生したのだろうか。

しかし一方で「商店会」が結成されるためには、

必ずそこに何がしかの店舗集団が、すでに存在したはずである。

商店の集合体である「商店街」がそこに無ければ「商店会」も発生しない。

従ってこの二つの言葉は、時に混同され、時に使い分けながら、

同時並行的に発生した言葉であり、概念であったと見るべきであろう。

組織団体の発達史的な視点で見るならば、

始めに「商店会」という小さな任意団体が結成され、

やがて昭和初期に「商業組合」という形で「商店会」の法人化が進められる。

このとき法人となった多くの団体が「商店会」ではなく

「商店街」という組合名称を名乗ることになるのである。

そこには、やや意図的な言葉の使い分けが感じられるし、

このニュアンスは今もある程度存続しているように感じられる。

 

「商店街」の成立には、もうひとつ「住宅街」の発生も大きく関係している。

話は近代以前に遡る。

江戸時代にも、商人同士の何らかの組織はあったに違いない。

しかし多くの場合、その組織は商人の集りというよりは、住人の集り、

つまり「町内会」的な側面の方が強いものであった。

或いは同業者組合のような組織も早くから存在した。

町内組織の場合は、あくまでも住人としての共同組織であり、

商業的な利害を調整するという側面はそれほど大きくなかったであろう。

しかし近代になって、身分制の時代が終わると、生業の異なる者同士が

同じ区域に居住するという新しい社会が出現した。

特に郊外の場合は、もともと農村だった地域が宅地開発され、

農民と新興住民(多くはサラリーマン)との共存が始まって、

様々な葛藤の中から、新たなコミュニティとして「町内会」が組織される。

それと同時に、新興住民たちの衣食住を支えるための商店が増えていき、

農民とサラリーマンと商人とによる三者の共存が求められたのである。

ここに誕生したのが「住宅街」であり「商店街」だったのであろう。

生業の異なる人々が寄り集まって居住する近代的な「住宅街」においては、

住民組織とは別に、生業ごとの互助的組織が必要だったのではないだろうか。

それが商人たちの「商店会」であり、農民たちの「農会」だったと考えられる。

「商店会」は、「町内会」と同じように会則があり、入会資格があり、

役員が選出され、会費を徴収する組織であった。

しかし重大な違いは、会費徴収の目的とその金額にあったのではないか。

街の環境を整えるために共同で街路灯や路面を整備するのみならず、

共同陳列所を設置したり、大売出しの景品を用意したり、そうした目的で

費用が徴収されるのだから、とても一般住民と同じ組織では運営できない。

こうした商業事業を目的とした組織が必要となったとき、

住民組織とは別に「商店会」が生れることになるのは当然であった。

 

「商店街」とは、このように「住宅街」出現の副産物として、

必然的に誕生したものであり、住民組織である「町内会」と

商人組織の「商店会」は光と影のように表裏一体であったことが窺える。

住民が生活する上で商店が必要とされ、

商店が成立つ上で近隣住民が必要とされた。

当たり前のことだが、この構図こそが地域生活の基本型であったことを

ここで改めて確認しておきたい。

そして商店街について考えるとき、単に商店だけの問題としてではなく、

周辺住民との関係を視野に入れなければ片手落ちになってしまうことを

改めて関係者は認識すべきであろう。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会

 

それをするのは誰か?

木暮衣里氏の「これからの商店街支援のあり方」を読ませていただいた。

(全国商店街新興組合連合会『商店街PLAZA』№435/2018年冬号所収)

木暮氏は、平成27年度の『商店街実態調査報告』に掲載されている

「商店街の専従事務局員数」のデータを紹介しつつ、

商店街におけるマンパワーの実態を指摘されている。

データでは、事務局員ゼロの商店街が全体の70.8%を占めているとしている。

国や自治体が、いくら手厚い支援メニューを用意しても、具体的に

そのメニューを実行する人員がいない上、支援策の情報すら把握していない

というのが実態である。

一方、業種構成が物販店から飲食店・サービス店へと大きく変わっており、

商店街運営に携わる仲間も減少している。もちろん人を雇う資金もない。

従って、まずは中小企業診断士などの資格を持つ人材が、3年程度、

商店街に張り付いて支援活動ができるようなメニューを作るべきだ、

と木暮氏は主張される。

全くその通りだと私も考える。

 

「専従事務局員」だった私の経験から、ひとつ付け加えておきたいのは、

有能な人材が商店街に派遣されたとしても、

その人が何でも自由に実行できる訳ではない、という現実である。

水を差すようで大変恐縮なのだが、

商店街はトップダウン型の組織ではなく、加盟店みんなの理解を前提に、

代表となる役員が運営する組織である。

全店舗ではないにしろ、少なくとも役員の店舗からは承認を得なければ

どんな事業も前には進まない。実はそこが非常に厄介な問題なのである。

マンパワーが必要だというご指摘は、大いに賛同できることで

是非とも進めていただきたいと考える。

しかし、その先にも次の問題が待ち受けており、それが意外と大きな問題

であることも、頭に入れておかなければならないだろう。

 

論考の続きで木暮氏は、商店街ごとに異なる状況に応じて専門性を持った

支援対応が必要だと述べておられる。かねがね私もそう考えていた。

また、空き店舗問題が日本社会の空き家問題を予言し、

店の後継者不足が日本の少子高齢化社会を予言していたかの如く

商店街の課題は、将来の日本社会の縮図だとも指摘しておられる。

ひとり商業だけの問題と片付けるなかれ。

社会問題全体の兆候と心して注視せよ、という警鐘である。

地域には、まだ名前の付いていない社会的課題の卵が

少なからず産み落とされているのに違いあるまい。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会

男社会とブラジャーの着心地

商店街という業界に飛び込んで、一番初めに私が抱いた疑問は

「なぜ商店街は男が運営しているのか」というものだった。

これは、私が所属した商店街に限らず、

全国の多くの商店街に共通して言えることで、

歴史的な経過を眺めても、女性主導で運営された

商店街組織というものは、極めて希であるようだ。

それ故に「女性部」とか「おかみさん会」という組織が

商店街内に設けられることが多い。

女性の組織は別枠だという意識があるからこその現象である。

 

しかし考えてみるまでもなく商店街は「お買物」をする場であり、

「お買物」をするのは大抵の場合、ご婦人方である。

にも関らず商店街は旦那衆が運営している。

もし男たちが「お買物」のことをしっかり理解できているのだとしたら、

男であれ女であれ、誰が運営しようと問題はないのだが、

私は、そうではないと思っていたので、疑問に感じたのである。

と言うのも、男には「お買物」のことが永遠に理解できない、

というのが私の持論であった。

もちろん例外もある。「お買物」をする男性は世の中に大勢存在するだろう。

いや、俺だって買物ぐらいするよ、

と反論したくなる男性も少なからずいるに違いない。

しかしながら私は思う。

男性の買物と女性の「お買物」は似て非なる、別ものなのである。

 

男性の買物と女性の「お買物」の違い。

それは、私が男性である以上、永遠に説明できないのだが、

それを承知で敢えて説明するならば、

男性の買物は、欲しいもの・必要なものが

手ごろな金額で入手できればそれで充分満足して完結する。

一方、女性の「お買物」はそれだけでは成立しない。

せっかく「お買物」をするというのに、

充分な比較検討もせず安易に納得したり、

お得な付加価値が得られないのは、

「お買物」としては楽しくない、つまらない、

という発想が常に女性たちの中にはあるらしい。

多くの男たちはそれを「くだらない」ものと一蹴する。

物品を購入するのに「楽しい」とか「楽しくない」とか、

そうした感覚は、あまりピンと来ないのが一般的であろう。

少し大げさに表現しすぎたかもしれないが、

こうした男女の意識の違いはしばしば指摘されるところであり、

日常生活の中で多かれ少なかれ思い当たる節があるのではないか。

 

逆立ちしても「お買物」の本質が理解できない男たちに、

どうして商店街の運営ができるのだろうか、と14年前の私は考えた。

まるでそれは、男たちだけで寄ってたかって

ブラジャーの着心地を論じ合っているようなもので、

滑稽この上ない姿に思えたのである。

その後、私は商店街組織の人間となり、

この疑問に対する幾つもの答えを発見してきた。

実は私が考える上記の法則は、

商店街を構成する各店舗にも同じことが当てはまる訳で、

結局のところお店の運営には

女性のセンスが欠かせない役割を果していることが多い。

経営者は男性であっても、お店を支える接客の機微の部分は、

おかみさんや女性店員が担っていることが少なくないのである。

そこで、店のことは女に任せて、

男たちが店の外で集り、商店街組織の運営を担うことになる。

 

さてここで、話はかなり飛躍するが、

上記の理屈は、人類が社会を築いてきた歩みとよく似ている。

子育てをはじめ家庭のことは女性にしかできないので、

役に立たない男たちが家の外で食糧を調達する中で、男同士の集団が

「社会」という利害調整の場を形成してきたのが人類の歴史である。

同様に、家庭の延長たる店舗において、出番の少ない男たちが集って

「商店会」が結成され、自分たちの利害を調整してきた歴史があった、

と私は考える。かなり飛躍した例えであることは承知の上である。

 

しかし、であるにしても、

世の中の半分は女性で構成されているはずで、

少なくとも商店街を運営する役員の半分は女性であるべきだ、

という私の主張は、ついに誰からも支持されなかった。

そもそも女性からの支持も得られないのだから、是非もない。

お店のおかみさんたちは、商店街の運営など構っている暇が無いし、

たぶん興味も無いのだろう。

規模は小さくとも商店街組織が一つの「社会」である以上、

そこは男たちの居場所だという暗黙の約束が、

本能的に女たちを遠ざけるのかもしれない。

いずれにしても商店街組織は男社会のままなのである。

 

男社会の商店街組織は、しばしば着心地の悪いブラジャーを企画する。

大抵の場合、そのブラジャーは女たちのダメ出しによって差し戻されるか、

手直しを余儀なくされる。

その繰り返しだ。

繰り返せば、幾らかマシなブラジャーが出来てくる。

そうやって商店街は何とか命脈を保ってきた。

歪みを是正する適正化の原理は、実は組織の外で機能しているのだった。

私が内側から商店街を眺めて来てたどり着いた

答えのひとつはここにあった。

 

通常、組織に歪みや偏りが生じてしまうと、大きなダメージにつながる。

しかし商店街の場合は、組織自体が最初から歪んでいて頼りにならない。

組織にしがみつこうともしないし、当てにもされていない。

それ故に才覚ある者が勝手に立ち上がって

再生を果しやすい余地も残されているのだ。

皮肉なことだが、組織の力が強すぎると

却って自由な振る舞いが許されず、適正化の原理が機能しづらい。

頼りにならない組織であろうとも、

それを補うダイナミックな適正化の原理が機能するならば、

そこにこそ商店街の強みがあるのかもしれない。

 

しかし私が奮闘してきた14年のあいだにも、

世の中は大きく変わってしまった。

女たちのダメ出しでは、もう間に合わないのである。

それほど消費者の意識は、急速に地域の小売業者たちを置き去りにして、

別次元のステージへ向かおうとしているように見える。

 

時代が通り過ぎたあとの滅びかけた商店街で、

まだ男たちは着心地の悪いブラジャーを考えているだろうか。

それとも着心地の本質を見抜いた誰かの才覚で、

見事に再生を果しているだろうか。

いずれにしても着心地を決めるのは女たちである。

才覚ある者が現れなければ、商店街も滅びる運命だ。

結局のところ、最後は人材ということになるだろう。

人の才覚、そして着心地の本質を知る確かな肌感覚。

明暗を分けるカギは、その辺りにあるような気がしている。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会

 

よそ者の目

もう記憶も薄れてきたのだが、14年前、

商店街の事務員になったとき、外の世界から見て、

商店街という業界がいささか歪んで見えたことを思い出す。

その当時、私は商店街のここが妙だな、腑に落ちないな、

と感じた疑問の幾つかを率直に役員たちに向けてみたのだが、

彼らが私の疑問をどこまでご理解いただけたのか、

その手応えはあまり感じられなかった。

いま改めてそのことを当人に話しても、恐らく

「そんなこと言われたか?」という反応が返って来るに違いない。

蛇足ながら付け加えておくと、

それは彼らの無理解によるものではなかった。

あの頃、私が様々な疑問を感じることができたのは、

ひとえに私が外部の人間だったからに他ならない。

ただそれだけである。

どのような世界でも同じだと思うが、

どっぷりと一つの世界に浸りきっている者は、

なかなか自分自身のことを客観的に評価することができないものだ。

当時の私は単なる「よそ者」として、

初心者的な多くの疑問点にぶつかっていたに過ぎない。

 

それでも私は、自分の手帳にその疑問を何点か書きとめておいた。

初心を忘れないためである。

この14年間、私は時々この手帳を読み返しては、

自問自答を繰り返してきた。

疑問に対する私の答えは、当然のことながら少しずつ変化していったが、

その疑問自体は変わることなくずっと持ち続けていた。

いつまでも「よそ者」の目を濁らせたくなかったからである。

今でもその心掛けは、間違っていなかったと思っている。

但し「よそ者」の目は、常に自分の立場を苦しめ続けた。

唯一、その苦しみから開放される時があるとすれば、

それは「よそ者」たちと気持ちを共有できる時に限られていた。

内輪の者たちとはあまり共有することのできない孤独な疑問は、

むしろ14年間のあいだに、手に余るほど大きく膨らんでいった。

その一方で、疑問に対するドライな回答も、数ばかりが増えていった。

それらの回答は、見つかるたびに私の孤独を深めるので辛かった。

「よそ者」たちと共有できたのは、あくまでも疑問だけであり、

私が見つけたドライな答えの数々は、誰かと共有することが難しかった。

だからより一層、孤独は深まり、矛盾も際立っていった。

いずれ破綻が起こることは予感していたが、それは突然襲って来ることになる。

 

「初心」は尊い

自分としても、それは残念な結論だった。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会