まちと理性 ―商店街を知るための内視鏡的視座―

商店街内部(事務局職員)の視点で地域社会を考える

よそ者の目

もう記憶も薄れてきたのだが、14年前、

商店街の事務員になったとき、外の世界から見て、

商店街という業界がいささか歪んで見えたことを思い出す。

その当時、私は商店街のここが妙だな、腑に落ちないな、

と感じた疑問の幾つかを率直に役員たちに向けてみたのだが、

彼らが私の疑問をどこまでご理解いただけたのか、

その手応えはあまり感じられなかった。

いま改めてそのことを当人に話しても、恐らく

「そんなこと言われたか?」という反応が返って来るに違いない。

蛇足ながら付け加えておくと、

それは彼らの無理解によるものではなかった。

あの頃、私が様々な疑問を感じることができたのは、

ひとえに私が外部の人間だったからに他ならない。

ただそれだけである。

どのような世界でも同じだと思うが、

どっぷりと一つの世界に浸りきっている者は、

なかなか自分自身のことを客観的に評価することができないものだ。

当時の私は単なる「よそ者」として、

初心者的な多くの疑問点にぶつかっていたに過ぎない。

 

それでも私は、自分の手帳にその疑問を何点か書きとめておいた。

初心を忘れないためである。

この14年間、私は時々この手帳を読み返しては、

自問自答を繰り返してきた。

疑問に対する私の答えは、当然のことながら少しずつ変化していったが、

その疑問自体は変わることなくずっと持ち続けていた。

いつまでも「よそ者」の目を濁らせたくなかったからである。

今でもその心掛けは、間違っていなかったと思っている。

但し「よそ者」の目は、常に自分の立場を苦しめ続けた。

唯一、その苦しみから開放される時があるとすれば、

それは「よそ者」たちと気持ちを共有できる時に限られていた。

内輪の者たちとはあまり共有することのできない孤独な疑問は、

むしろ14年間のあいだに、手に余るほど大きく膨らんでいった。

その一方で、疑問に対するドライな回答も、数ばかりが増えていった。

それらの回答は、見つかるたびに私の孤独を深めるので辛かった。

「よそ者」たちと共有できたのは、あくまでも疑問だけであり、

私が見つけたドライな答えの数々は、誰かと共有することが難しかった。

だからより一層、孤独は深まり、矛盾も際立っていった。

いずれ破綻が起こることは予感していたが、それは突然襲って来ることになる。

 

「初心」は尊い

自分としても、それは残念な結論だった。

 

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