まちと理性 ―商店街を知るための内視鏡的視座―

商店街内部(事務局職員)の視点で地域社会を考える

運転手のいないバス

商店街の内情を知ろうとして、様々な人たちが商店街事務局を訪れる。

例えば官公庁、商工会、中小企業診断士、大学教授はじめ研究者などなど。

そうした方々と意見を交わすとき、私は商店街をバスに例えることがあった。

うちの商店街は「運転手のいないバス」のようなものだと。

別の言い方をするなら、

自分がこのバスの運転手だと思っている人が、誰もいないのである。

それでも、商店街というバスは走っている。

加盟店という大勢の乗客も乗っている。

乗客たちは、当然誰かがこのバスを運転しているものだと思い込み、

自分のことで頭がいっぱい。外の景色を見る余裕もない。

組織の役員たちですら、自分が運転手だという意識は薄い。

商店街に事務員がいる場合、特にその傾向は強くなる。

事務員がいるから大丈夫だ、という意識が、彼らを油断させるのだろう。

ところが事務員というのは、もともと運転席に座る資格がない。

もとより乗客ですらないのだが、役務上やむを得ず乗車しているに過ぎない。

その事務員だけが、実は運転席の脇にいて、前方を見張っている。

それが現状だ。

しばらく道はまっ直ぐだとしても、先に行くとカーブが見えている。

更にその先にはトンネルも待ち構えていた。

カーブですよ、トンネルですよ、と乗客たちに注意しても、

みんな自分のことで頭がいっぱい。事務員の声を気にする人も少ない。

運転席の脇で、事務員はハラハラしながらフロントガラスを見つめている。

この先どうなるのかは明らかだが、自分にはどうすることもできない。

みんな!大変だ!と大声を出しても、バスは止まらないだろう。

運転手がいないのだから。

 

それでも、本当に事故が差し迫ると、不意に誰かが運転席に近づき、

ハンドルを回して危険を回避する。

ああ、危なかった!

そうしてまた、何事も無かったかのように、バスは運転手不在のまま

よろよろと走り続ける。事故が起こりそうだったことも忘れて。

結局、運転席には、誰も座らない。

この先には、次のカーブとトンネルが見えている。

事務員は運転席の脇で、ひとり肝を冷やしている。

 

見ていないで、お前がハンドルを握ればいいじゃないか!

蛇行する危険なバスを見かねて、沿道の人がそう怒鳴っている。

しかし事務員はハンドルを握れない。それはルール違反である。

本当のことを言うと、こっそりハンドルを動かすことが無いではない。

それは必要最小限度に、影響の少ない範囲でうまくやらなければならない。

うっかり乗客に見つかると大変だ。

「君が運転していいよ」と、あっさり言い出しかねないからである。

「もともと君は運転手なんでしょ?」

そう勘違いしている乗客も少なくない。

残念ながらこのバスは、乗客たち自身が運転するルールになっている。

商店街の事務員は、一般的な会社の従業員とは明確に立場が違うのである。

会社の従業員は入社すると「社員」になるが、商店街の従業員は

「会員」にはなれない。商店街の会員は、会費を払っている店舗だけである。

従業員は会員ではないから、商店街のメンバーとは言えない。

しかし困ったことに、誰もそうは思っていない。

 

事務員が加盟店を回って、会費を集金することがよくある。

そんなとき、多くの店で店主たちのボヤキを聞かされる。

「商店街に金を払ってばかりで、何もいいことがない」

この言葉には、事務員が商店街を代表する立場だという意識が窺える。

事務局イコール商店街という図式が、前提になってしまっている。

ところが、事務員は商店街の会員ではない。部外者なのである。

あくまでも、お店の人たちこそが商店街のメンバーであり、

事務員は商店街に命じられて集金業務をしているに過ぎない。

商店街とは、あなた方自身のことですよ、

と言うと、全員が全員、自分は商店街なんかじゃない、と言い返す。

だって、自分で自分に会費を払うはず無いじゃないか。

確かにその通りだ。

しかし、実は商店街の会費は、自分が自分に払っているのに他ならない。

但し、会計上は別人(別法人)同士のやり取りと認められているし、

会員一人の一存で、商店街の財産を処分できる訳でもない。

みんなで集めた資金を、みんなで話し合って使っている。

だから自分たちの利益のために使えるよう、話し合えば良いだけだ。

その理屈が、組織の役員にも充分に理解されてはいない。

まして一般会員の中には、自分がどこの商店街に属しているかさえ

知らない者もいる。行先も分からずにバスに乗っているようなものだ。

いや、バスに乗っていることすら、分かっていないのかもしれない。

 

商店街とは一体、誰のことなのか?

 

お店の人が、報酬をもらって商店街運営の実務を引き受ける場合もある。

また、事務員がいない商店街も非常に多い。

むしろ商店街事務所を構えて従業員を雇用する商店街の方が圧倒的に少ない。

事務員がいない商店街では、役員自らが事務処理や雑用を引き受け、

会費の集金や業者への支払いなど、財産の管理も行っている。

それ故、自分たちで商店街を運営しているという意識は比較的高いと言える。

従って「運転手不在のバス」になるケースは少ない。

誰も運転したがらない、という点において事情はどこも同じだから、

根本的な問題は変わらないが、少なくとも運転席には誰か座っている。

だが、誰かが座っていたとしても、全く問題が無い訳ではない。

例えば、その運転手は運転が上手いとは限らないし、

同じ人が長く運転してくれるという保証もない。

目まぐるしく運転手が交代することも珍しくないだろう。

運転手がいないよりはマシかもしれないが、

本業の片手間で運転するのだから、安全運転とは限らないのである。

或いは逆に、運転手がハンドルを放そうとせず、運転席にしがみついて、

バスを勝手に暴走させる、というケースも目にすることがある。

これはこれで問題だ。バスの運行は、とかく困難がつきまとう。

 

要するに、バスを安定的に運行するためには、技術と時間のある運転手が

乗客の中にいるかどうかにかかっている。

運転の上手な事務員を雇っても、バスは走らないのである。

運転技術があり、時間も融通できる者が、乗客の中にいない場合は、

乗客の誰かが運転技術を身につけなければならないことになる。

更には、運転時間を確保する仕組みを作ることも必要だろう。

計画的に適任者を選び、技術を習得させていくことができれば、

そのバスは常に優秀な運転手を確保することができる訳である。

ところが、その仕組みを作ることは、そう簡単ではない。

商店街というバスの運転技術を、誰も教えてくれないからである。

同じ運転方法のバスなど二つと無いのだから、技術が確立するはずもない。

仮に運転技術が確立していたとしても、習得する時間や費用を確保するのは

更にむずかしい。

では、優秀な運転手がいないバスは、どうすればよいのか。

乗客たちがお互いに助け合うしかないだろう。そのためには、

まず自分たちがバスに乗っていることを自覚しなければならない。

次に、このバスはどこへ行こうとしているのか。車両は安全なのか。

燃料は足りているのか。誰が運転しているのか。気になるに違いない。

そうして最後には、バスに乗っている自分たちが、乗客ではなく、

実は「乗組員」だったのだと知る時がきっと来るであろう。

 

商店街とは一体、誰のことなのか。まずそこから、始まるのではないか。

 

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