まちと理性 ―商店街を知るための内視鏡的視座―

商店街内部(事務局職員)の視点で地域社会を考える

商店街を知る② 東京の商店街形成と木密地域

商店街について考える上で、押えておきたい問題のひとつとして、

「商店街」という言葉の成立ちについて以前取り上げたが、

今回は東京の商店街の成立ちについて見ておくことにしたい。

 

東京で有名な商店街といえば、例えば、戸越銀座商店街巣鴨地蔵通り商店街

或いは下北沢、高円寺、大山、武蔵小山などの名前をよく耳にするだろう。

これらの商店街は、多くが関東大震災以降、昭和初期にかけて市街地化し、

戦前期に商店街を形成して発展した街である。

ちょうど「商店街」という言葉が使われ始めた頃に人口が急増した

新興の街ということになる。当時は「新開地」などと呼ばれていた。

立地を見てみると、山の手線の外側、おおよそ環状7号線周辺に

昭和初期成立の商店街が多数分布していることが分かる。

戸越、武蔵小山、自由が丘、三軒茶屋、下北沢、笹塚、高円寺、中野、

江古田、大山、十条、赤羽、西新井、竹ノ塚、綾瀬、亀有、新小岩などが

その代表例である。

 

大正12年9月の関東大震災により、東京の旧市街地は都心部を中心に

壊滅的な被害を受け、山の手線の外側へ多くの被災者たちが移住した。

その結果、急速な人口増加によってこれらの「新開地」が誕生した訳である。

もちろんこの前提として、首都圏の鉄道網整備なども大きく寄与していた。

急速な人口増加は、生活必需品の大量消費という需要を生み、

そこに商店街が自然発生的に形成されていくという経過をたどる。

こうした「新開地」の形成には、当然のことながらまず宅地開発が行われた。

多くの場合、これらの新興商店街周辺には同潤会住宅が建設されており、

東京という街の歴史、成立ちを考える上でも大変興味深い。

同潤会は、関東大震災の被災者を救済する目的で、都内近郊に多くの住宅を

建設したが、その立地エリアは当時未開発だった環七周辺に集中していた。

つまり、先に例示した新興商店街の立地と重なる箇所が少なくないのである。

同潤会住宅だけではないが、昭和初期に次々と開発されたモデルタウンは、

新興商店街とワンセットで形成されており、これに伴って小学校の増設や

道路・水道整備事業、区画整理組合事業なども

同時期に同じエリアで一斉に進められた事業であった。

 

昭和初期に誕生したこれらの「新開地」が、いま同じ状況を迎えている。

例えば、木造住宅密集地域、いわゆる「木密」問題というものがある。

昭和初期あるいは終戦直後に自然形成された街の宿命として

木造住宅が現在も密集しており、防災上危険視されている問題のことである。

「木密」地域は、たいてい道路が狭く入り組んでいるため災害に弱く、

水道管などのインフラも老朽化していることが多い。

街の形成から70~80年が経って、街自体が老朽化を迎えているのである。

そんな地域に、東京を代表する主要な商店街が多く立地していることになる。

ここに至って今、再開発と商店街の存続が、俄かに注目され始めている。

特に東日本大震災以降、東京都は「不燃化10年プロジェクト」を立ち上げ、

「木密」地域を中心とした再開発、防災対策事業に力を注いでいる。

 

この問題は、地域ごとの個別の問題というよりは、いま見て来たように、

東京という街の歴史そのものの問題であるように思えてならない。

新興市街地の開発は行政の施策を受けたものだったかもしれないが、

商店街の形成は、施策というより需要に応じて自然発生したものであった。

生活する人々が求めたから生まれたのであり、今も尚、求められているから

商店街は存続しているのであろう。

時として行政の強制的な力を必要とする問題もあるとは思うが、

どのような場合であれ、自然の力に背かぬよう手を加えなければならない。

自然に逆らえば、必ず人工的な企みは破綻を余儀なくされる。

「木密」を背景とする再開発と商店街存続の両立問題は、

昭和の東京がいかにして形成されたのか、東京全体の問題として、

再度立ち返って考える必要があるのではないだろうか。

百年の計は、まず百年の歩みを知ることから始める必要があるだろう。

 

#地域社会 #商店街 #地域団体 #商工会